Haze

いつまで電話してるのさ、こんなに月は明るいのに

5月22日(金)遠景

昨日眠りについたのが遅かったうえに、アラームを設定し忘れたせいで、9時半から会議だったのに、10時半に起きた。それで一周まわって吹っ切れて、仕事は順調とまではいかないにせよ、そこまで悪い時間の使い方はしなかったように思う。こうやって自分を宥めすかしてこれから先何十年やっていくしかないと思うと、うんざりすることにかわりはないけれど。

夕方、恋人と電話をしたら、夕立明けの空のように気持ちの霧が晴れた。私が雨を降らせるたびに雲をとりはらってゆく恋人は太陽である。そう本人に伝えたら、じゃあきみは向日葵になってねと言い出した。その名のとおり、その顔を太陽に向け続ける花である。到底似つかわしくない花だが、私が顔をあげていられるのも、たしかに恋人のためであるかもしれないのだった。

夜、ポケモンの映画を地上波放送でやっていたようだ。SNSでは、ほとんどの人がその話題に興じていた。幼少期をアメリカで過ごしたことに加えて、8歳で帰国してから中学にあがるまではテレビもゲームもない家で過ごしてきたので、同年代の多くが経験している、2000年代初頭のコンテンツを私はほとんど知らない。モーニング娘。とか、おジャ魔女どれみとか、ポケモンとか、セーラームーンとか、犬夜叉とか、ロクヨンとかプレステとか。中学では少年漫画の界隈に運良く入り込めたし、高校と大学は帰国生が多くて共通のバックグラウンドなどあってないような世界だったからあまり気にしたことがなかったけれど、こうしてSNSという窓を通じて外界と接していると、その数年のギャップというのは、埋まることなく脈々と続いているものであることに気がつく。とくに主として使うアカウントでフォローしているのは、韓国アイドルやフェミニズムといった共通項があるような人たちがほとんどで、ふだんそこに自分との違和を感じることはすくない。だからなおさら、そういう親和性の高いと思っていたひとびとが、突然そういう話題で盛り上がっているのを見かけると、勝手に疎外感を感じてしまうのだ。まるで、その期間の自分が存在していないみたいに思える。

夕食のあと、チェコの音楽教育についてとりあげた番組をやっていたので、ぼんやりと眺めていた。音楽の専門学校の授業風景を映しつつ、指導者や生徒に簡単なインタビューをする構成になっていたが、なかでもコレペティトール(伴奏者)として指導にあたるひとのインタビューが良かった。指導するとき、どんなことを意識していますか、というような質問に、彼女は「生徒が気持ちよく演奏できるように意識しています。調和をとったり、先に引っ張ってみたり」と答えていた。自身もピアニストとして活動する傍らで、この職も務めているそうだ。自分の音が世界の中心に来る感覚を知っているひとが、主役たる生徒の音を聴いて演奏することもできるというのが、すごいと思った。私の文章は、いつも私が世界の中心で、独りよがりにすぎないものだから、そうして真摯に他者の音に耳を傾けることのできるその姿勢が、単純に羨ましかったのだと思う。私は私のために書く、というのは私が守りたい信念のひとつではあるけれど、誰かのために言葉を使いたいと思ったから、恋人との文通の文面を一晩かけて練った。